訪問地 Photo Report

2008年9月24日 (水)

古代巨石文明:Malta/Hagar Qim& Mnajdra Temles

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<ハジャーイム神殿/Hagar Qim Temples>

ハジャーイム神殿は、海を背景に突き立った岩の遺跡が印象的な神殿。地中海&古代遺跡というマルタらしい光景が眼前に広がっている。マルタのビーナス等、貴重な遺物の発見された世界遺産指定の巨石神殿群の一つだが、世界遺産といって遺産で行くと、予想以上に小規模で、正直「え、これだけ?」と拍子抜けさせられる。これなら見た目は中尊寺の方が立派だぞ。また、夏の暑さのもとでは、陽光をさえぎるもののない石の遺跡に長居するのは、少々辛かった。

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<ハジャーイム神殿からイムナイドラ神殿に至る道>

イムナイドラ神殿 ( Mnajdra Temples)は、ハジャーイム神殿から徒歩約15分。緩やかな坂を下った先にあり、ハジャーイムに比べ、より海が迫って見える。巨石が立ち並び、一見同じように見える神殿。どこが違うんじゃい、とつっこみたくなるが、使われている巨石は全く別の所から運ばれた性質の違う物ということで、ゆるやかなカーブの目立つハジャーイムより、ゴツゴツとした迫力がある。Img_0257

マルタ各地の古代遺跡から出土した文化財の多くは、首都ヴァレッタの考古学博物館にそのオリジナルが展示されている。「マルタのビーナス」や「眠る女性」などの国宝級はもちろん、マルタの成り立ち、神殿の発達過程などが模型や絵を用いて分かりやすく説明してある。

しかし、ヴァレッタの項でも書いたが、私の訪問した時は二階部分が修復中であり、一階だけでは「え?もうこれで終わり?」というほど、展示は少なかった。 

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2つの世界遺産の近くには、「青の洞門(Blue Grotta)」がある。マルタを囲む海は、信じられないぐらい透明度が高く美しいが、青の洞門付近は岩と海とのコラボレーションによって、エメラルドグリーンの不思議な海の色を見せてくれる。

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ローマ帝国とキリスト教徒 パフォスのモザイクと王の墓:Cyprus/Pafos

 

キプロスのピュグマリオンは愛の女神アフロディーテの助けによって妻ガラテアを得、二人の間に生まれた子がパフォスである。このパフォスと血縁もしくは姻戚関係があったキニュラスがパフォスの名にちなんでこの街を建設したと伝えられている。女神アフロディーテ(英名:ビーナス)の生まれた場所は、キプロスの海岸と言われている。ボッティチェリの有名な「ビーナスの誕生」の舞台はキプロスというわけだ。

それはともかく、パフォスはヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけて、キプロスの首都として栄えた。町中にいろいろな時代のさまざまな遺跡が残っており、町全体が世界遺産の指定を受けている。

バスの車窓からしか見られなかったが、聖パウロが縛られて鞭打ちされたという円柱があった。パウロは、鞭打ちの命令を下したローマ提督をキリスト教に改宗させたとか。また、近くには当時弾圧されていたキリスト教徒を葬ったという聖ソロモンのカタコンベもある。

Img_0396もっとも有名なものは、ローマ時代の有力者の館のエリアだろう。ここにはすばらしいモザイクが残されている。また、数キロ離れた場所には、「王族の墓」と言われる紀元前3世紀ごろの大規模な11もの墓地がある。ただし、これはまだ一部で、実際にはまだ100もの墓が発掘されていないという。ただ、ここは実際には誰のものなのかはまだ判明していないとか・・・。

私のキプロス訪問の目的のひとつが、この世界遺産パフォスのモザイクを見ることだった(ちなみにもう一つはグリーンライン突破)。ところが、ホテルのあるラルナカから車で二時間以上かかるこの街への交通手段がない。バスはあるにはあるが、乗り継いで半日ほどかかってしまう。このことを現地のインフォメーションで知った私はかなりあせった。インフォメーションのおじさんは、日帰りで公共バスでいくなんてとんでもない、という。かといって、オプショナルツアーも実施の曜日が会社ごとに決まっていて、もっともメジャーな会社のものは、私の滞在中には実施されないのだ。現地の旅行代理店をいくつか回って、これが最後か?というところで、やっと滞在中に開催のオプショナルツアーを見つけることができたのだった。

モザイクは、旧市街の海岸近くのエリアに広がる当時の貴族屋敷あとに残されている。現時点で発掘された屋敷の中でも最も有名なのが「ディオニソスの館」である。私の参加したツアーでも、この館だけを見学した。

Img_0416くだんのモザイクは、予想通りすばらしく、石を一つ一つ敷き詰めながらグラデーションや動きをリアルに表現している様子から、当時の技術の高さをうかがい知ることができる。ガイドの話によると、石の並べ方で、師匠か弟子か、どちらが担当したかがわかるそうだ。また古いものは、石を元の形のまま使っているが、時代を下るにしたがって、石を整形してから使っている。

Img_0426Img_0421ここでのモザイクのモチーフは、主に古代の伝説だった。中には「ロミオとジュリエット」の原型ともいえる悲恋の話を表したものもあった。上ものの屋敷は、地震によって倒壊して今はもうないが、若い人の部屋には、こうしたロマンチックな話の部屋を・・・というように、設計されていたのだろうか?その割には、悲恋だったり妻の浮気など、とんでもない話ばかりだが・・・。どんな思いでこんなに美しいモザイクを作ったのかと、私は当時の家主の気持ちを想像するばかり。

念願のモザイクを見たあとは、ホテルに向かう。今日でキプロスの旅も終わりだ。ホテルに帰ったら即、空港に向かわなくてはならない・・・。

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ローマ帝国とキリスト教徒 クリオンの劇場とモザイク:Cyprus/Kurion

クリオンは、キプロス最大のリゾート地 リマソール近くにあり、紀元前14~13世紀、ギリシアのペロポネソス半島から渡ってきたアカイア人の植民都市として発展した街。その後、ローマ帝国の支配下にもおかれたため、ギリシア、ローマ両時代における重要な遺跡の数々が残されている。Img_0374

その中の一つが「エウストリオスの家」。4世紀に立てられた有力者の館と浴場の跡Img_0375 。キリスト教がローマ帝国で公認された時代を背景に、キリスト教前後の様式が見られる遺跡だ。

この家の建物自体は既に崩壊しているが、床には数多くのモザイクが残されている。あるモザイクにはキリスト教のシンボルである孔雀や魚が表わされていて、一説によると、これはキリスト教がこの地で普及し、この館の主人が改宗したことを示しているらしい。ちょうどこの頃に、大地震がこの地を何度か襲ったため、住人たちは古代ギリシアの神々を信じることができなくなり、新興宗教であったキリスト教に改宗したのではないか、という。魚や孔雀のモザイクはその地震以後のもので、それ以前のモザイクには、こうしたモチーフは表されていない。

モザイクの模様については諸説あるようだが、古代の人々の自然災害に対する畏怖の気持ちを表現したものとして、キリスト教に絡めたこのエピソードをなんとなく信じたい気がする。

この館はImg_0378海を臨む高台にあり、その向こうにはローマ式野外劇場が広がっている。もともと紀元前二世紀に建てられ、その後地震を受けて2世紀に再建された。2000人を収容できる本格的な劇場で、なんと現在もイベントなどで使用しているという。ただ、あまりに反響が良くて、慣れていない役者だったりすると声が反響して自分の声がわからなくなったりするのだとか。ためしに劇場の真ん中のポイントで手を打ってみると、ものすごい反響がよかった。

ローマ時代には動物闘技も行われていたらしく、「グラディエーター」や「ベン・ハー」といった映画でみたキリスト教徒や奴隷と猛獣の戦いもあったのかしら・・・などと想像してしまった。

背後には、海が広がり、日差しは強いものの気持ちの良い場所だった。アフロディーテ誕生の地といわれるぺトラ・トゥ・ロミウ海岸はこのすぐ近くだ。

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ローマ帝国とキリスト教徒 聖ラザロ教会:Cyprus Ralnaka

Img_0296 Img_0299 首都ニコシアが紛争によって南北に分割されて以後、キプロスの空の玄関口となったのがラルナカ。いまやヨーロッパからのリゾートとして発展し、大きなリゾートホテルが海岸沿いに並んでいる。リゾートというだけでなく、この街も古い歴史をもち、古代からの遺跡が町のあちこちにある。

聖ラザロ教会は、新約聖書に「ラザロの復活」として取り上げられているように、ラザロが2度目の死を遂げた場所とされている。彼はイスラエルで一度死んだ後、イエス・キリストによってよみがえり、その後キプロスに渡って30年あまりこの地で司教を勤めたとか。まだキリスト教が公認される以前のことなので、激しい迫害もあったことだろう。地下にあるローマ時代の墓地は、迫害されたキプロスのキリスト教徒たちのものか?

ちなみに、ラザロの復活を見た人々は、イエスの力を信じた一方、支配者側のユダヤ人はその力を恐れ、どうやってイエスを葬ろうかと真剣に考えるようになったそうだ。

9世紀にこの場所でラザロの墓が発見され、当時(ビザンチン)の皇帝、レオン6世が教会を建立したといわる。現在の建物は17世紀に建てかえられたもの。イコンの収集でも有名で、教会に入ると祭壇の前にはたくさんのイコンが並んでいる。石造りの教会の建物とあいまってなんとも荘厳な雰囲気をたたえた教会で、入っただけで心が不思議と落ち着いた。

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ローマ帝国とキリスト教徒、アラブ支配 聖パウロのカタコンベ:Malta Rabat

Img_0222 聖ヨハネ騎士団がマルタにやって来る以前に、マルタの首都として栄えていたのがイムディーナとラバト。細い曲がりくねった路地は、神秘的な雰囲気を感じさせる。

マルタがアラブに支配された9世紀にに、イムディーナを囲む城壁が作られ、で囲まれた部分をイムディーナとし、ラバトはその外部にあたるそうだ。

それ以前の2世紀から9世紀は、ローマ帝国領であり、その時代の遺跡も多い。

聖パウロのカタコンベ(地下墓地)は、4~6世紀のローマ時代の遺跡。近くには17世紀に建てられた同じく聖パウロの名を称する聖パウロ教会がある。カタコンベの中に入ると、狭い入り口からは予想できないほど広大な地下スペースが広がる。なんと、広さ222,000㎡あるそうだ。中は暗くて迷路のよう。(写真はフラッシュをたいているので明るく写っているが)1000もの墓地が連なり、4~6世紀にキリスト教徒がここに埋葬された。 回っているうちに気味が悪くなってきた。

入ってすぐの広いスペースには、埋葬の際に会葬者がお別れの食事をしたと言われる大きな岩を使った「アガペ・テーブル」もあった(写真)。

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キリスト教同士の戦い ナポレオンの侵攻:Malta/Valletta

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この街は、16世紀のオスマントルコについで、19世紀のフランス、ナポレオン軍、そして20世紀は第二次世界大戦のドイツ軍と、大きな戦いの舞台となっている。

オスマントルコを退け、その勢いを誇った聖ヨハネ騎士団も、その後の宗教改革の影響や規律の緩みにより、19世紀に入ると勢力も弱まってしまっていた。ナポレオン軍の侵攻に対してたいした抵抗をすることなく、フランスに侵略されてしまったという。騎士団はここで島を追われることとなる。

写真は、ヴァレッタ市民の憩の場である「アッパー・バラッカ・ガーデン」。もともとは騎士の憩のために造られたそうだが、公園からふと下をのぞくと、堤防の上に大砲が並べられている。さすがに今のそれはオブジェだろうが、過去にはここも戦場となり、ナポレオンの戦艦が海から砲弾をうちこんできたのかもしれない。

その後、マルタ住民はフランスと対立するイギリスに保護を求め、その後20世紀にいたるまでイギリスの保護領となる。第二次世界大戦時には、対ドイツにおける前線基地として、また戦場となるのである。

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キリスト教同士の戦い 第二次世界大戦:Malta Vittoriosa

Img_0190_small Img_0192_small マルタは、ネルソン提督のイギリス海軍の支援により、1800年にナポレオンのフランス軍を退けたあと、イギリスの保護下におかれた。そのため、第二次世界大戦においては、地中海の防衛線として、ドイツ軍・イタリア軍と英国を初めとする連合国軍との激しい戦いの舞台となった。

首都ヴァレッタの聖エルモ砦は、1941年にはドイツ軍のUボートに爆弾が仕掛けられ破壊されている。(写真は聖エルモ砦とその道しるべ)

また、スリー・シティーズのひとつ、ヴィットImg_0265リオーザではドイツ軍の爆撃を避けるための防空壕が残され、戦争の記憶をとどめるものとして公開されている(見なかったけど)。1940年代生まれのほとんどのマルタ人は、防空壕生まれなのだとか。(写真はヴィットリオーザの街、お祭りの飾りつけ)

イタリアに近く、またアフリカとヨーロッパの間にあるマルタ。地中海の要に位置している。しかし、大国同士の争いのとばっちりを受ける小国の悲哀も感じる。なんだかんだやたらとお金にこだわるマルタ気質に世知辛さを感じるのだが、それも小国として生きてきた歴史によって培われたのではないかと思うのだ。

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イスラム教とキリスト教~ヨハネ騎士団vsオスマントルコ:Malta/Valletta

街全体が世界遺産に指定されている聖ヨハネ騎士団の街、ヴァレッタ。観光客の多く集まる場所であると同時に、マルタ人が働いたり、買い物に訪れたりする場所。ただし日曜日は店が閉まってしまうためか、閑散としている。
主な観光名所の建物は、騎士たちの住居などが転用されたものも多い。

「聖ヨハネ騎士団」が、十字軍遠征を目的に結成されたことと、マルタが地中海交通の要衝という地政学的な理由から、名所旧跡はほとんどが、戦いに関するものだ。

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たとえば、町の突端にある「聖エルモ砦」。戦争博物館なるものが併設されている。ただし、あいにくと私の訪問したときは”閉鎖中”。夏の観光シーズンに、ずいぶん商売っ気がないこと。なめとんのかい、とつっこみたくなる。

<聖エルモ砦:中に入れなかったので外から・・・>

ところで「セント・エルモス・ファイアー」という映画があったが、ここで指しているのは、この砦の火なのだろうか?

【騎士団長の館/Palace of the Grand Masters】

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ヴァレッタ観光のハイライトの一つ。1階が武器庫で2階がステートルームになっている。美しいゴブラン織りのタペストリーがいっぱいにかけられた部屋や晩餐会用の大広間など、騎士団時代栄光を感じさせる部屋の数々が見もの。ただし、宮殿という名前の割には質素で、軍隊からの成り立ちを彷彿とさせた。

武器庫は現在、博物館となっており、騎士団の所有した武具、武器が展示されている。映画でしか見たことのない鎧やら鎖帷子やらが見られて感動。思ったより当時の人は身長があったのだなー、とか、こんな重いもん着てよく戦ったなあとか、とりとめなく当時の騎士の生活を勝手に一人で偲んでみた。

古くから戦場となったマルタだが、中でも16世紀のオスマントルコの戦いは、激烈を極めた。4万人のオスマントルコ兵の攻撃に対し、4ヶ月にわたる戦いを騎士団側は耐え抜いた。オスマントルコ軍が撤退した後、防衛軍を指揮した騎士団長ヴァレットの名前から、この町は名づけられた。またこのときに築かれた砦が「聖エルモ砦」である。この砦は、その後ナポレオンのフランス軍侵攻や第二次世界大戦時にも、マルタを守る文字通り砦となった。

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イスラム教とキリスト教~ヴェネツィアvsオスマントルコ:Cyprus/Nicotia

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<Famagusta Gate>

ファマグスタ門は、かつて市内へ入るための門として建てられたベネツィア時代の遺構。こうした門は、島内の主要都市に向かう道路に向けて設けられており、今は北キプロス領となったかつての海の玄関口ファマグスタに向かうのがこの門だ。

ファマグスタに上陸したオスマントルコが攻撃したのも、この門のあたりが中心だったのないか。そういえば、卒論のための本のニコシア攻防戦の記述で、ベネツィアの司令官がオスマントルコに対して非常に傲慢な態度をとったため、降伏後に串刺しにされたという記述があり、私はそこで「串刺し」という単語を覚えたのだ。まあ、あんまり役に立たない単語だが。

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<城壁都市ニコシア>

当時、ニコシアは城壁と砦に囲まれており、現在でも旧市街では当時の町並みと城壁の一部を見ることができる。

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<残った城壁>

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また北キプロスの中心広場に建つ塔は、ベネツィア時代に設置されたもの。オスマントルコが倒したらしいが、その後イギリス統治時代に再建されたとういことで、キプロスの支配者の栄枯盛衰を眺めてきたものといえる。

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1989年 冷戦終結の場:Malta/Marsaxlokk

Proadv02_p01ソ連(当時)の ゴルバチョフ大統領とブッシュ(父)米国大統領が、マルタの漁村マルサシュロックの沖合いの船上で会談し、冷戦終結が宣言された。世に言う「マルタ会議」である。(一説によると、ヤルタ会談とネーミングを揃えるために、マルタが両者の会談に選ばれたとか?)

実は、私は時間切れのため、この町を訪れられなかったのであるが、今日の私たちに大きな影響を与えた歴史的な場所としてご紹介します。

ちなみに、各種ガイドやWEBを見ると、ゴルバチョフのことを「ロシアの大統領」と欠いてあるのが個人的には非常に気になった。ソ連が崩壊したのは、ゴルビーの辞任のタイミングで、1991年のはずよ。

写真は、「地球の歩き方」ホームページから借用。マルタ独特のカラフルな船が見られる。

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